LUX ET VERITAS ー光と真理ー(1)


文:渡邉新意治

「時間という生き物が光に変わり、刻々のその運動が、僕らを無名にかえしつつ記憶を超えた記憶へと僕らを誘う。すべてがそのようにあると光が語り、そのようにあるすべては、それでいいと風が答えている」

東 敏郎「麦の穂の呼ぶ声がきこえる」


そして、今日もまたこの場所へ立ち戻ってしまった、なんどでも、なんどでも…

賃貸物件(アパート・マンション・一戸建)の企画立案を天職としている私が、新しい建築空間への取り組みを始める際に、決まって訪れる場所があります。それは私の出身校でもある松山大学2号館。

映画創りにおいて、監督と制作スタッフ達が、ドラマの背景となるロケ地をゆっくりと巡りながら演出空間のイメージを膨らませてゆくプロセスを「ロケハン」と言うそうですが、まさに私にとってもプランニング前のこの母校訪問の儀式は、各家主様からの現実的な依頼条件の中で、経済効率の目標値をクリアしながら、いかに独創的な賃貸空間を生み出してゆくか……という構想を、自分の心と向き合いながら練り上げてゆくための思索を促してくれる、かけがえのないひととき。

2002年に大観土地としての活動を始めて以来、この18年の間で提案してきた賃貸マンションのスタイルがほとんど「コンクリート打ち放し」であるのは、私自身の建築物に対する嗜好の原点に「松山大学2号館」の建物の佇まいがあるからなのです。


幾何学的造形操作によって、建物内部と外部との「位相の反転」を顕在化。つまり、外部要素が内部要素に侵入し、より深い内部空間を創出してゆくという形式を、非常にダイナミックなボリューム感で、しかも分かり易い空間構成として成立させている2号館校舎。


訪れる者を魅了するのは、三層分スキップフロアの全体空間のセンターポジションにある階段室上部に穿たれているトップライトからの淡い柔らかな光に優しく包まれながら、各教室を繋ぐ共有階段を上り下りする際の、得も言われぬ浮遊感。

そこにひとたび入り込むや否や、それまで支配されていた日常的な時間から瞬時に解き放たれる私の意識は、建築空間の醍醐味の中で、全く別の次元へと入り込んでゆくのです。

そして教室と教室との間に創り出された、ゆったりとした通路(共有廊下)を歩みゆき、薄暗がりのところから、光の差し込む場所へ導かれる私は、建物の内側と外側、また外部空間に感じることが出来る内部、内部空間に潜まされている外部、それら重層的に絡み合った全体空間を回遊する行為を介して、自意識の奥に潜在している(忙しい日常の中ではすっかり忘れ去ってしまっている)遠い日々の色褪せた記憶の断片が不意に蘇り、そのことからくる驚きと喜びと懐かしさとが入り混じった暖かい感情が身体を見る見る浸してくれていることを実感しているのでした。


そしてまた、この静かな興奮の果てには、未だ見ぬ遥か彼方の未来の時間の幻影までもが、朧気ではありますが、陽炎のように揺らめき立ち上ってくるのです。

過去と未来が交差する場所。

人の意識を無限に解き放ってくれる建築空間。ノスタルジーの原体験。

「建築とはノスタルジーである」とは、メキシコの建築家ルイス・バラカンの言葉だったように記憶しています。

「建築」という未来に向かって造形してゆく前向きな行為の結果生み出されてきた数々の建造物、それがノスタルジーを醸し出す契機ともなり得てくる。振り返ってみれば私達の意識においても、過去への遡行という行為が、必ずしも精神の衰弱のみに陥るものではなく、懐かしさに抱かれるひと時を通じて、日頃は気付かぬ己自身のそこはかとない高揚感を不思議な力で芽生えさせてくれることになっているのも、紛れもない事実ではないでしょうか。

過去を見つめることが、未来への眼差しに繋がってゆくような経験。

そして特筆すべきは、深層心理を目覚めさせ意識の流れにおける過去から未来へ繋がる魅惑の扉を開ける役目を果たしているのが、松山大学2号館の建物全体の空間構成であるという点。

外部が内部に侵入し、其処により深い内部を創り出す形式。直方体の大きな塊(大講義室)が左右に分かれ、その真ん中を亀裂のように引き裂く谷間(共有廊下)を、前述の直方体が両サイドからサンドウィッチ状になって挟み込み、この通路空間がスリット状となって建物全体を横断してゆくという構成。そしてこの基本構造がトップライトを備えた階段室を中心に、東側と西側、1Fと2F、合計4ブース、しかもスキップフロアの導入により、ブース毎に微妙な床レベル差をつけながら展開してゆく流れは、空間導線が醸し出す醍醐味となっています。

60年代から70年代にかけての日本を代表する建築家、篠原一男の「建築の役割とは、不可視な人間精神を形象化することだ」という有名な言説が、初めてしっくりと私自身の裡で血となり肉となっていったのも、この2号館校舎への探訪を繰り返し繰り返し重ねてきた、その行為を通じてのことでした。

訪れる度に見えてくるものが変わってくる、感じられるものに奥行が出てくる、常に新しい発見がある、というのも2号館空間の持つ計り知れない最大の魅力。

スキップフロアとトップライト、そして亀裂の空間、という建築構造を通じて建物が醸し出す象徴的な光と影のコントラスト。

訪れる者の心には、各々の現在、過去、未来の時間の意識と時空を超えて解き放たれる自由なイリュージョンが、立ち上って来るだろう。過去へも未来へも、どこまでも自由に飛び立ってゆける飛翔感覚。

昔と今、そしてこれから、まるでこの世のものでないような、あるいは現世と空世をいちどに見ているような。

そしてこのエモーションのクライマックスを演出してくれる場が、2階部分西側端に造形されている共有廊下が一番昇りつめたエッジでもあり、そこから屋外階段によって急下降する機能を担なわされている「階段踊り場テラス」なのでした。


2号館を西側より見る。直方体の大きな塊(大講義室)が左右に分かれ、その真ん中を亀裂のように引き裂く空間(共有廊下)の導入により、外部が内部に侵入し、より深い内部を創り出す構成となっている。

また、建築当時(1966年)に、本建物西側に植樹された若き木々達が、約50年経った現在大きく成長し、その枝と葉の陰翳が、味酒がはらの西日を受けて、2号館西面の壮大に造形されたコンクリート壁面に、豊かな表情と時のうつろいを照らし出している。

2号館中央階段室より、建物東側ブースの1Fと2Fを見る。トップライトに柔らかく照らし出された階段室を中心に、東側と西側、 1Fと2F、合計4ブースが微妙な床レベル差を持ちながら、うねるように展開する構成。また、階段室上部の躯体を支える構造エレメントである10本のコンクリート柱が幾何学的なデザイン性を保ちながら、階段室全体空間を造形的に引き締める役目を果たしている。構造とデザインとの一致。その美しい事例。

東西方向約40m、南北方向約60m、階高約20mの直方体の箱が二つ、約30mの間隔を開けて並列して建てられ、その二棟をスキップ式の階段が連結する空間構成。

また、この二棟(東棟と西棟)は、それぞれの箱の中の階高空間を二層(二階建)に分節している。注目すべきは、下のフロア(1階部分)の床レベルを、東棟と西棟とで約2,5m上下にずらしていること。上のフロア(2階部分)の床レベルも2,5mずれることになる。このように面を少しずつずらしながら空間の流れ(導線)を導き出しているところが、松山大学二号館に見られるモダニズム建築の特徴。このフロアレベルのずれを埋めるために、約30m離れている両棟の隙間を、スキップ式の階段が連結しているのである。

建物の外部(外気)が、建物内部に侵入し、より深い内部空間を創り出している。創り出された内部(共有廊下)は、本来外気が入り込んでいる外部であるにもかかわらず、極めて薄暗い空間となっている。写真を見る限りにおいては、中心に見える外部空間(共有廊下)こそが建物内部として認識出来るのである。そして、中心廊下の左右の壁の向こう側こそが建物外部であるのではないかという錯覚に捉えられる。(本来そこには大教室が展開しているのだが)

全体空間の中では、上述した薄暗い内部空間(共有廊下)は、教室から見れば外部にあたるのである。

写真にあるように、この外部空間は、教室(写真中央に位置する廊下の左右に見える壁の向こう側)から見れば外部にあたる。

興味深いのは、この外部である共有廊下が薄暗い空間であるのに対し、内部である教室がトップライトの効果によって爽やかな明るさに満ちているという点である。

光の採光計画においても、二号館校舎は、内・外の逆転構成をとっているのである。


1950年代から1960年代にかけて、丹下健三氏が設計したRC公共建築において、繰り返し展開された建物1階部分の「ピロティ」。1955年広島平和記念館、1958年香川県庁舎等。

丹下氏にとって、「現代の都市」において重要である空間は「人の流れ淀むところ」、「人々が出会い語らうところ」にあった。その流れを導き出す方法として「都市のコア」という概念が構築され、その一つの具体的な形として「ピロティ」という建築的表現がデザインされた。

豊川斉赫氏の著作(群像としての丹下研究室)によれば、「ピロティとは、建物そのものが担わされる私的経済的な内部機能と、社会的な外部機能とが接触する社会的接触の空間であり社会的連帯の表現であった。」

丹下氏が標榜した「ピロティ」的空間が、1966年建築の2号館校舎にも忍ばされている。

前述した二つの大きな直方体空間を連結するスキップフロアの階段部分全体を、大らかに包み込むように高さ約15mを超えるダイナミックなピロティが造形されているのだ。

1970年初頭、70年安保の時代。当然のごとくこのピロティは、社会的反体制を唱える過激な新左翼系全共闘学生による「連帯」を目指した学生集会の広場となり、数多くの「タテカン」設置場所となっていた。

それから約50年……現在は、平成生まれの穏やかな学生達の語らいの場所となっており、まさに人が出会い、淀む場所として機能しているのである。


松山大学(旧 松山商科大学)2号館

  • 所在地:愛媛県松山市文京町4-2
  • 構造:鉄筋コンクリート造2階建
  • 建築面積:2358㎡ 
  • 延床面積:4753㎡
  • 竣工:1966年

[ 寄稿 ]

渡邉 新意治

わたなべ しんいち

1962年松山生まれ、1986年松山商科大学 人文学部卒業。1989年 地元松山の不動産会社に就職、賃貸物件の斡旋業務に約10年携わった後、(株)大観土地として独立。以来、20年間賃貸空間の企画立案・管理・入居者募集 事業を続けています。小説家 福永武彦、映画監督 吉田喜重を敬愛。

えひめ建築めぐり

愛媛・松山を中心に、グッとくる建築や街並み、街の活動などを紹介します。 運営:瀬戸内アーキテクチャーネットワーク

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