LUX ET VERITAS ー光と真理ー(2)

文:渡邉新意治

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LUX ET VERITAS ー光と真理ー(1)


「松山大学二号館」を、松山商科大学創立の歴史の中で、捉え直してみたいと思います。



「長い歴史の中のひとコマを生きる我々が遭遇する個々の社会現象は、それぞれ特殊性を持っているが、それは普遍性に立脚し、また歴史的必然性を有している」

                             住谷悦治



「時の流れはたゆることなく、一瞬の停頓も寸刻の静止もありません。しかもその間に寄生する諸々の現象は、あるいは一弾指の間に滅し、あるいは、また永続し、恒存する。人類はその社会的営みの中で、永遠と瞬間、有限と無限の対立を意識し、暦制を創案し、歴史を構想致しました。(略)松山高商時代、東の大倉・西の松山、と謳われたことも今は昔の語り草となりましたが、以来、大学院大学としての今日に至るまで、その道は遥けく、かつ険しいものでありました。現在旧本館として残っている高商時代の学舎は、当時青々たる緑野であった味酒野の自然に囲まれ、古城(松山城)の楼閣を指呼の間に望む静謐の境にあり、若草の萌え出ずる頃ともなれば、辺りは菜花一路、片隅に咲く菫の色に、つばなの白い穂がこぼれる風情、秋は校庭のポプラが黄ばみ、やがて風に身を任す解脱の興趣、いずれも当時のうら若い学徒のたゆらかな夢を育て、心を培ったものでありました。」これは、1973年・昭和48年、しめやかに挙行された松山商科大学50周年記念式典における、八木亀太郎学長の式辞の一部です。八木学長は、大正13年に建設された木子七郎氏設計の旧本館学舎を愛おしむように偲ばれています。

我が母校の創立は、1924年。

松山の地に、松山高等学校と並ぶもう一つの「高等教育機関」の設立を、との地元有識者の方々の熱き要望を受け、山西町出身で大阪の地にて工業用ベルト製造業で成功を収めていた実業家・新田長次郎氏(雅号・温山)の、誠に気高き郷土愛からくる巨額の寄付金により、同じく松山出身の東京帝大卒で松山北予中学校長を務めていた加藤彰廣氏を初代校長として向かえ入れ、大正12年、松山商科大学前身の「松山高等商業学校」が味酒野の地に呱々の声を上げたのでした。開校に向けては、当時松山市長であった加藤恒忠氏も政財界を繋ぐ重要な仲介役として多大な尽力をされたとのこと。

学生を迎え入れるための校舎は、学園出資者新田氏の娘婿にあたる木子七郎氏が設計。西欧のネオルネッサンス様式を導入した重厚にして気品溢れる鉄筋コンクリート造4階建の旧本館が、田園風景の広がる松山城北に由々しく誕生したのです。アンバーとグレーの中間をゆくような落ち着いた建物外観の色調は、学びと研究の学舎としての荘厳さと、若人の象徴としてのゆかしさを兼ね備えていました。


松山発となる鉄筋コンクリートの松山高商本館は、松山市民にとっても、高等学府としての街のシンボルとして、「この建物であれば全国にも誇ることが出来るであろう」という、息を飲むような興奮があったに違いありません。木子氏は、前年には久松家別邸として政財界人のサロンとしての晩翠荘を手掛け、後年は愛媛県庁舎を設計。小さな地方都市松山に建築の分野で近代化をもたらした新進気鋭の優秀なる設計士でした。

第一期入学生は60名。崇高で私心のない真理の探求に努力精進する学園とならんことを希求し揺籃期を支えられた教授達の志を、日々目の当たりにしていった学生達もまた共々に純真なる向上心で日夜勉学に励み、大正15年の第一期卒業生達は、世界大恐慌を背景とした当時の日本の厳しき時代状況にも拘らず、極めて高い就職率を誇りました。そして年々高等教育機関としての実績を着実に積み上げてゆき、昭和10年代には一学年120名、そして卒業生の多くが帝国大学進学もしくは、実業界への就職においても、三菱商事・三和銀行等、東京・大阪方面への進出を果たし、名実ともに全国的評価の高い有数の「高等商業」として、日本教育界に名をとどろかせたのでした。

当時、入学定員120名に対し全国から約1000名を超える優秀な学生達が入学を希望し、入学試験の競争倍率は何と10倍超だったとのこと。

若干40才の若き研究者(敬謙なキリスト教徒でもあった)田中忠夫氏が第三代校長として赴任されていた昭和13年から16年にかけてが、松山高商の最も発展した時期で、教授スタッフも京都帝国大・同志社大を中心とする関西地区の旧制大学で教鞭をとられていた進歩的な学者達の中より、経済学の住谷悦治氏、経済史国家論の賀川英夫氏、哲学の木場深定氏等が松山の地に赴任され、学生達もそのリベラルなアカデミズムに感化され、教授達を恋慕し、学園内建物も旧本館に加えて、昭和14年に二号館、16年に三号館、17年に四号館と充実の一途を辿ってゆきました。

(旧二号館)

(旧三号館)


松山高商の素晴らしさは、その華やかなる発展の一方で、江戸時代の藩校のような学塾のなごりがあり、教授達と学生との距離感が近くマスプロではなくマンツーマンの教育、また学園の和を超えた家族的な繋がり、その「日常性」にあったと言われております。

当時学生として在校されていたOBの方々の手記にもしばしば、学生と指導教授との間の心温まるエピソードが数多く紹介されています。

昭和16年に18才でふるさと広島を離れて入学された佐久間進先輩の回顧録によると…

「憧れの住谷先生の経済原論の開講日の時間は、何と裸体画に関する講義から始まったのである。近世初期に出現する裸体画の生まれから歴史的背景へと講義は及んで、芸術はそれ自体として存在する抽象的なものではなく、時代の経済的基盤の上に花開く相対的な性格を有するものだという魅力的な講義であった。(略)月に1、2度は道後にお住まいの先生宅に学園先輩と共にお邪魔し、先生奥様がもてなし上手の社交家であることをよいことに、あつかましくも度々食事をご馳走になり、夜の更けるまで先生との間で人生談義に花を咲かせたものである。その後は、冷めやらぬ興奮の余韻を度々(何と住谷先生の筋向いにお住まいであった)木場先生のお宅へと持ち込んだものである。哲学の教授であった木場先生は、夜半近く住谷家を辞してぞろぞろと学生が押しかけてもいつも快く迎えていただき、木場婦人も実に気さくな賢人で、婦人腕自慢の酒肴の馳走になったりした。ある時は深夜、先生共々数人で道後の湯に浸かり、浴槽の周りに鰯を並べたように寝そべって爽快な気分を満悦したのも懐かしい思い出である。肝心の授業の方は、カントの純粋理性批判の原書の輪読で、私達学生の語学力では到底歯が立たず、木場先生の説明を拝聴するばかりだった。戦後松山高商を辞してから住谷先生は同志社大学総長となられ、木場先生は東北大学教授として実存哲学の大家になられた。」

ドイツ留学から帰ったばかりの若き田中校長、そして県外からの優秀な学者研究者達を、暖かく受け入れておられた地元教授達の懐の深さも特質せねばなりません。40才を超えたばかりの田中校長を陰から支えられ番頭役に徹した大ベテラン、経営学の西依六八教頭、俳人種田山頭火とも親交があった高橋始教授は、伊予弁のゆったりした言葉使いで赤身を帯びた丸顔とメガネの奥の優しい瞳が印象的であったと言います。今一人のメガネ男子である民法学星野通教授は学生から「お通さん」の愛称で親しまれました。伊予市出身で東京帝大法学部卒業と同時に大正12年松山高商創立に伴い法学教授として赴任、戦後は松山商科大学学長の重責を果たされ、まさに本学と共に人生を歩まれた清廉潔白、高潔な教育者でした。

こうして素晴らしい教授達と、純粋無垢な学生達との子弟関係に裏打ちされた研鑽の日々の積み重ねにより沸出した学園の充実期を迎えていた、まさにその矢先、昭和20年7月26日、アメリカ軍B29爆撃隊の松山大空襲により、旧本館を除いた二号館から四号館までの木造校舎はすべて全焼。築後10年にも満たない、これからの学園の発展を願って関係者一同が全力を傾注して建てられた美しい木造校舎の数々が、無残にも一夜のうちに消滅してしまったのでした。

昭和39年から昭和43年まで松山商科大学学長を務められた増岡喜義学長の手記によりますと、この松山大空襲の際、田中学長はご自宅が焼夷弾を受け燃え上がっているにもかかわらず、一目散に松山高商の校庭に駆けつけて、当直役目の数人の学生達と共に、非情にも燃え上がる学舎の消火活動を夜を徹して続けられた、と記されています。

けれども、努力空しく翌朝には、鉄筋コンクリート造りの本館と加藤会館を除いたすべての校舎が灰燼に帰したのです。

その時の田中学長の無念の気持ちは、いかばかりかと拝察する次第です。

けれども、戦前からの学園関係者の「これからの時代を担う若者達への教育は寸時も休むべきではない」との気高き強い信念によりて、終戦後直ちに「復興計画」を立て、速やかに実施に移し、折しも国からの「学制改革の議」に従いながら、「新生大学」昇格を目指した計画へと発展。しかし、大学昇格の為の概ねの予算は600万円。(現在の約2億円に相当)これの調達の為、教授及び学生(学生達も様々な文化事業を企画・実践し、資金集めに懸命に協力したことを、当時新任の教員として赴任されていた越智俊夫氏―後の松山商科大学学長―も感謝に堪えなかったと述懐されています。)を含めた学園関係者の涙ぐましい努力と財界並びに公官庁の賛助協力を得て昭和24年、商経学部・1学部制の単科大学として、松山商科大学は伊藤秀夫学長のもと、新しき船出を果たしたのでした。

そしてこの新生大学としての揺籃期にも、前述した戦前の松山高商の良き伝統であった「家族的友愛心」は生かされ、伊藤学長始め従前から居られた教授達が、大学への発足と共に増員された新しい教員及び事務職員達を、暖かく迎え入れ、極めて親切・丁重に友和を図っていったとのことでした。

全教職員の慰安旅行・季節毎のピクニック・マージャン大会等の余興・年末の忘年会等、地方大学ならではの家族ぐるみの催しが行われ、学園内には常に和やかな空気が漂い、信頼感に基づいた明朗な大学創りがなされていったと当時新規赴任された菊地金二郎教授も語られております。

また大学として、社会に向けての実績を向上させてゆこうとの方針のもと、教授達は自らの研究活動・学園内の教育活動に留まらず、事務職員と共に一丸となって、卒業生達の就職先確保の活動に邁進され、地元松山に限らず戦前のOBが社会人として活躍していた大阪・東京へと度々足を運び、我が大学の学生達を優秀な会社へと送り込むための努力を続けられて行ったのでした。

そうした戦後の大学発展のひとつの象徴として、昭和34年、鉄筋コンクリート2階建の新図書館、昭和38年の新三号館が建築されました。

この二つの建物のフォルムは、所謂戦後モダニズム建築でした。鉄筋コンクリート打ち放しによる、水平方向への伸びやかな造形を意識した二階建て構造は、昭和30年の前川国男設計「国際文化会館」・昭和31年の日建設計が手掛けた「広島県庁舎」等を彷彿させるものです。

(新図書館)

(新三号館)


残念ながらこの図書館は令和の現在、現存しておりませんが、三号館校舎は築後57年を経たにも拘らず、その丹精な造形デザインは全く色あせることなく現役の校舎として、令和現在の学生達にも使用されているのです。

東京オリンピックのあった昭和39年前後からの所得倍増時代の我が国の経済発展に伴い、本学も単一学部体制から経済・経営の二学部制となり、在学学生数も昭和35年の1400名から昭和40年には2500名となってゆきました。これに伴い多人数でのマスプロ授業に対応する為の数多くの広い教室が必要となり、昭和41年、新二号館建設の運びとなっていったのでした。


※本記事で掲載した写真は「松山商科大学六十年史」から引用させていただきました。


[ 寄稿 ]

渡邉 新意治

わたなべ しんいち

1962年松山生まれ、1986年松山商科大学 人文学部卒業。1989年 地元松山の不動産会社に就職、賃貸物件の斡旋業務に約10年携わった後、(株)大観土地として独立。以来、20年間賃貸空間の企画立案・管理・入居者募集事業を続けています。小説家 福永武彦、映画監督 吉田喜重を敬愛。

えひめ建築めぐり

愛媛・松山を中心に、グッとくる建築や街並み、街の活動などを紹介します。 運営:瀬戸内アーキテクチャーネットワーク

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