トークイベント『愛媛の建築について』座談会
松山・ケミビルで不定期に開催されているイベント「知らなくても楽しい、知ったらもっと楽しい○○の世界」。
10月11日の第4回目となる同イベントでは『愛媛の建築について』のテーマのもと、白石卓央、宮内健志と宮畑周平さんの三人で、愛媛の建築やデザイン、地域の素材など様々な観点でトークを行いました。
本記事では、トーク後に行われた、三人と会場を含めた座談会の内容をお伝えします。
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白石:三人にも共通した話題として、焼杉や瓦など、地域の素材に関することが挙げられるかと思いました。愛媛には菊間瓦がありますが、瀬戸内の多くの地域に分布しているようです。県外の人に愛媛の建築を案内することがあって、尾道の空き家再生の中心的な役割を担っているNPO空き家再生プロジェクトや広島のアーキウォーク広島の方と松山の建築を巡ったことがあるんですけど、愛媛でまず訪れたのが「菊間かわら館」で、尾道の古民家の瓦は全部菊間瓦だよと話していましたね。なぜ菊間瓦だと分かったかというと、宮畑さんのお話にもあったように、瓦にある刻印です。尾道の民家の瓦で見られる刻印を確認するために菊間かわら館を訪れたら、尾道の瓦が菊間産だということが分かったと。瀬戸内は海運が栄えていたので、菊間の瓦が尾道まで海運で運ばれていたということですね。
瓦の三大産地というと三州、石州、淡路。愛知の三河と島根と淡路島ですが、瓦の分布も地域ごとに異なるんです。例えばこの辺りだと東広島辺りに行ったら民家の屋根の色が茶色い赤瓦に変わるということに気付かれる方もいらっしゃると思うんですが、そうした瓦の分布を見ると尾道と松山や菊間との繋がりも見えてくると思いました。
また、宮内さんの話だと松村正恒の建築というのが今、ちょっとブームというか、私と宮内さんと、数人の間だけですけど(笑)。
LINEグループで「これは松村建築?」と無名な建築の写真をやり取りしているんです。松村さんの建築って、特に松山で独立されてからの建築には発表されていないようなものがたくさん現存していて、それを類推して楽しむという(笑)。この建物は面白いよねとか言ったりしながら、もしかしたら「松村建築」かも、といった感じで探す楽しみはあるし、今までなんとなく見過ごしていたものが街のお宝かもしれない。そんな発見がりますね。ただ、90年代にも同じようなことがあったようですね。「松山建築楽会」というものがあって、その時にも松山の「松村建築」についてまとめられていたようです。
宮畑:二人とも建築史家のようなところがあって勉強になりました。私もこちらに来て9年目になりますが、県内の建築を掘り起こすということをやってこなかったんです。周りに面白い素材がいっぱいあるので、あまり松村建築とか、愛媛県内の建築を見直すというか発見しようという意識はあまりなかったんですけど、こうやってみるとかなり面白いものがたくさんあるなというのと、あまりこういうのが本とかにまとめられていないんですよね。こういうのこそ誰か一回まとめてくれると面白いと思いますよ。愛媛建築史といったくくりでやられている方ってあまりいないので、ぜひ二人に著者になっていただいて、私が編集者として関わらせていただけたらと思っています(笑)。
愛媛の焼杉について
宮内:焼杉の話がありましたね。事前に白石さん、宮畑さんと焼杉についてやり取りしていたんですが、その際にある論文にたどり着いて、現在は住宅の外壁に窯業系サイディングが使われることが非常に多いんですが、その論文ではその前に焼杉のブームが1970年代にあったと書かれていました。
白石:焼杉は瀬戸内以外にも見られますが、普及したのが70年代なんですよね。伊予市に共栄木材という材木屋さんがありますが、少なくとも愛媛周辺の焼杉の産業化・工業化を先駆けは共栄木材さんのようです。焼杉が70年代に流行して、それが今窯業系サイディングなどに変わっているという流れです。現在は木の板を外壁に使おうと思っても法律上はなかなか使いづらいということもあって、だから焼杉から燃えにくいものに変わっているというのが実態でしょうね。
そのような中、また焼杉を使っていこう動きというか、地域の材料を使おうという動きが起こっていると感じています。今日は公共的な建築の話を中心にしましたが、例えば公共建築でも、地域の材料は多くの人にも受け入れられやすいというか。ある種、地域の材料というのが記号的な使われ方をしているような気がしています。
宮内:宮畑さんの写真で、弓削島の焼杉の民家の風景がありましたが、それは1970年代のブームの中で建てられたものですか。
宮畑:焼杉が工業的に大量生産されるようになる70年代以前は大工さんが手で作っていたわけですよね。一般的には杉板三枚を三角形に組んで、縄で固定して、その中に火を走らせると、内部だけ燃えてそれを解くと表面だけ焼けた板ができる。恐らく、島にある民家も70年代ではなくもっと前から作られていたのではないかと思います。だから、土着的なものと工業化のものというのは切り分けて考える必要があるかなと思っています。
白石:今日は会場に建築家の矢野さんも来ていただいていますが、地域の素材をどのように扱っていこうとしているのか、その辺りを矢野さんにも伺ってみたいです。
矢野:愛媛と東京で設計事務所をやっています矢野と申します。先日設計した車のショールームでは、菊間瓦と内子の和紙と県産材を使いました。素材をどのように使うかというのは難しいところがあり、瓦は現代建築としては使いにくいところがありますが、菊間町に行って何か使えないかなと話をして、瓦をタイル状に焼いてもらって壁に貼ったり、解体して出た瓦を再生材としてインターロッキングという、外構に敷くブロックに混ぜて風合いを出して使いました。県産材は、例えば大きい建物だと木は使えないのでどうやったら使えるのかといった実務的に乗り越えないといけないことがいろいろ出てきてハードルが高いんですが、できた空間にはオリジナリティがありますね。一方で、まだ地元の素材の可能性を追求しきれてはないなという思いはあります。
白石:矢野さんも東京のアトリエの設計事務所で働いて、拠点を松山に移された建築家です。今の話を聞いて、素材ひとつをとっても、どう使うかというか、どういう思いを持って使うかというか、そういうことが大事だなと思いました。ある面では免罪符じゃないですが、地域の素材を使えばいい、といった風潮があるかなと思いました。愛媛県武道館も、県産材から菊間瓦、大島石、水引といったいろんなものが使われていますけど、これはいろいろ検討された上で使われていると思いますが、公共建築に使う素材として地域の素材が受け入れられやすいところがありますね。いずれにしても、作り手の思いの持ち方で、素材の使い方も変わってくるし、そこが大事なのかなと改めて思いました。
会場:現在の、地域の技術で解決というか、やれる事はあるんでしょうか。
宮内:技術というか、法規、特に建築基準法との兼ね合いとがあるように思います。
白石:私も設計をするのでいつも法律と向き合っていますが、技術もですけど、法律を乗り越えられないかなというか……法律もどんどん厳しくなっていて、少しずつやりづらくなっているような実感はありますね。だから、結局コストなどを勘案すると外壁は窯業系サイディングにしましょう、と選択肢が狭まっている。これは私だけの話ではなくて、そういう法規的な制約が風景も変えちゃうかなと。そんな危機感のようなものは、なんとなく私の意識にはありますね。
会場:宇和島の九島を訪れた際、宇和島に外国人の女性が一人で来ていたんですが、九島でどこが一番良かったかと質問して、てっきり海が綺麗だとか人が優しいとかそういう答えが返ってくるかなと思ったら「焼杉の家がいっぱいある」と答えていましたね。建築に興味があって、特に焼杉に興味があると話していました。海外の人でそういうところに興味を持つマニアックな人はいる。そういう人が愛媛に来て、一泊目は道後温泉や松山城に行くけど、そこからもう一泊していろんなところを見て回ろうという人が確かにいるんだなと思いました。
愛媛と建築家
会場:愛媛民芸館は浦辺鎮太郎の設計だそうですね。浦辺鎮太郎ってどんな人ですか?
白石:丹下健三の話をしましたが、浦辺鎮太郎は丹下健三と同時代の建築家ですね。作品として愛媛では西条に愛媛民芸館がありますが、倉敷に、倉敷国際ホテルやアイビースクエアといった代表作があります。ちょうど浦辺鎮太郎の展覧会が倉敷で行われるところで、建築の専門家らが毎週のようにトークイベントを行うようです。
丹下健三や、浦辺鎮太郎、松村正恒らモダニズム建築を手がけた1950~70年代にかけて活躍した建築家の設計した建物が瀬戸内に集積しているということを各県も着目してPRしつつあり、それらの建築を連携して活用しようという動きがあります。岡山・倉敷に根差した、倉敷を代表する建築家が浦辺鎮太郎といえます。
宮畑:浦辺鎮太郎、香川の山本忠司、愛媛の松村正恒。この三人による「瀬戸内海建築憲章」というのがありますね。三人はキャラクターもアプローチは違うんですけど、エポックメイキングな出来事だったと思います。
瀬戸内海建築憲章
瀬戸内海の環境を守り、瀬戸内海を構成する地域での
環境と人間とのかかわりを理解し、媒介としての建築を大切にする。
人間を大切にすることから建築を生み出し創り出すことを始める。
それには、瀬戸内海の自然を大切にし、
そこから建築を生み出すことにある。
環境と建築とが遊離し、建築が一人歩きすることはない。
先人達のつくった文明を見究め、これを理解し、
将来への飛躍のための基盤とし、足がかりとする。
過去および現代において、瀬戸内海が日本人のための
文明の母体であったことを知るとともに、
それが世界に開けた門戸でもあったことを確認する。
すなわち、われわれはこの地域での文明を守り、
それを打ち出していくことを併せて、
広く世界へ目を開き、建築を通じて人類に貢献する。
1979年9月
浦辺鎮太郎・松村正恒・山本忠司(司会・神代雄一郎)「鼎談 瀬戸内を語る─瀬戸内海建築憲章を横に」
『風声 京洛便り』第9号、1980年
会場:愛媛で進んでいる、気になるプロジェクトがあれば教えてください。
宮内:糸プロジェクトでしょうか?
白石:西条で「糸プロジェクト」というプロジェクトが、隈研吾さんの大学の研究室も関わりながら進められていますね。分譲住宅による住宅エリアと商業エリアが計画されていますが、ただ分譲住宅地を作るのではなくて、コンペで若い人たちを対象にした住宅のプランを募集した形のようです。コンペ9組の設計者を選んで、90戸の住宅を作りますという事のようですね。
会場:隈さんはそれで愛媛に来ているんでしょうか。伊東豊雄さんは大三島に自身のミュージアムがありますね。
宮畑:隈さんは、年代によって作風が全然違いますよね。80年代に東京の環八に建てられたM2という建築があるんですけど、それと東京のオリンピックスタジアムを並べると全然違いますね。
伊東さんについては、半年間ほど取材をさせていただきました。伊東さんはプリツカー賞を取られた建築家ですが、大三島のプロジェクトは建築家としての晩年に、世の中に恩返しをするような最後のプロジェクトのように思いました。私財を投じて企業やメーカーなどとやりとりを行ったりできるのは伊東さんだからこそですよね。それを手弁当でされていて、素晴らしいことだと思います。もっと大きい建築もできると思うんですけど、風景の中で違和感がないくらいの建築をうまくやっていますよね。
白石:隈さんは時代に合わせられる感性を持っている方だと思っていて、だからこそバブルのときにはバブルらしいものを建てるし、新国立競技場のような、国民の空気を味方につけたものを建てられるように思います。
司会:建築ってちょっと知ることで興味を持つという機会が意外によくあって、まさに「知らなくても楽しい、知ったらもっと楽しい」。このような機会をこれからも増やして、このケミビルの中で勉強していけたらと思っています。今日は、白石さん宮内さん宮畑さん、本当にありがとうございました。(拍手)
トークイベント『愛媛の建築について』 記事一覧
トークイベント『愛媛の建築について』座談会
『愛媛の建築について』トークゲスト PROFILE
白石 卓央・しらいし たかお
松山市出身。東京でのデベロッパー勤務を経て松山にUターン。建築設計のかたわら、地元松山の建築やまちの魅力を伝える活動を行う。一級建築士。
宮内 健志・みやうち けんし
松前町出身。高知で8年過ごし2014年に帰郷。現在は工務店で働きながら、えひめ建築めぐりのブログを更新中。町の中に潜む独特な建築が大好物。
宮畑 周平・みやはた しゅうへい
神戸市出身。瀬戸内海・弓削島で暮らす編集者、写真家、ライター、コーヒーロースター。最近はブランディングも。専門は建築。国の登録文化財に指定された古民家住まい。
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