萬翠荘 木子七郎と松山(1)

愛媛・松山。その中心部にある萬翠荘は、宮廷建築家として活躍した名門 木子家に生まれた在阪の建築家、木子七郎が設計を行った建築で、2011年には重要文化財に指定されました。松山には萬翠荘のほかにも、木子七郎の手がけた建築が残っています。

木子七郎って誰?

木子七郎は明治17年(1884)生まれで、東京帝国大学、現在でいう東大の建築学科を卒業しています。木子七郎のお父さんは清敬(きよよし)という名前で、京都の京大工の棟梁で京都の御所や明治宮殿の造営にも奉仕されたそうです。

木子七郎は松山で多くの建物を手掛けていますが、松山の実業家・新田長次郎の長女のカツさんと木子さんが結婚したことで松山に出入りがあったからです。

松山に現存しているのは4棟で、萬翠荘、愛媛県庁舎、鍵谷カナ頌功堂、石崎汽船旧本社ビル。現存していないものには、伊豫農業銀行湊町出張所、大丸百貨店ゲストハウス、松山高等商業学校旧本館、愛媛県立図書館、子規堂などが挙げられます。子規堂は空襲で焼けてしまいましたが、ほぼ同じ形で建て直したそう。現在の松山市役所の場所にも、木子七郎の手掛けた旧松山市庁舎がありました。


萬翠荘

萬翠荘は、愛媛県で最初に建てられた鉄筋コンクリート造の建物であり、最初にできた本格的な洋館です(大正11年(1922)竣工)。萬翠荘は大正時代当時のお金で30万円かかったそうで、現在の金額に換算すると約19億円になるそうです。延床面積が約300坪ですから、坪単価にすると633万円。でも、今では手に入らない材料や、再現の不可能な技術もありますので、それだけのお金をかけてもできないかもしれない。それくらい貴重な建物です。

屋根の薄い緑色に見える部分は銅板で、緑青(ろくしょう)を葺いています。黒い屋根材は天然スレート。宮城県石巻市雄勝産の、2億5千年前に堆積した粘板岩(玄昌石)を約4.5~5ミリくらいの板に削いでいき、それをうろこ型に切って葺いています(近年復原された、丸の内の東京駅舎のドーム屋根も同じ雄勝産の天然スレートです)。壁面の白い部分は、大正時代のタイル貼り。近くでよく見ると、タイルの間の目地が膨らんでいるのが分かります。


窓の周りや玄関の車寄せの上のバルコニーなど、少しグレーに見える壁は、洗い出し仕上げです。モルタルに小さい白と黒の石の粒を混ぜたものを壁に塗るんですが、乾ききる前に表面のセメントを落とすことで石の粒が見えてくるんです。それで洗い出しというんですが、石の粒の表面をよく見てみると、平らな面が全部こちらを向いているでしょう。塗り付けただけではバラバラな方向を向いているんですが、洗う前に表面を叩くと、平らな面が正面を向くんです。細やかな仕事です。

玄関扉には青銅の鋳物の飾りがありますが、久松家の「梅鉢」の紋と鳳凰がデザインされています。

建物内部にも様々な意匠が施されていますが、3階(小屋裏。非公開)に上がってみると、屋根が鉄骨の構造で支えられているのが分かります。ずいぶん細い鉄骨ですが、よく見ると鉄骨がたくさんの三角形を作っているのが分かります。鉄骨を三角形に組むことで、動かなくなるんですね。頑丈な構造なんです。

  • 『DOTS vol.2 特集:松山、木子七郎の建築を巡る。』(瀬戸内アーキテクチャーネットワーク、2014)より再構成


えひめ建築めぐり

愛媛・松山を中心に、グッとくる建築や街並み、街の活動などを紹介します。 運営:瀬戸内アーキテクチャーネットワーク

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